蓼科山365日 10-23-19 霜降

今日は暦の上では「霜降の候」、この頃になると霜が降り秋は一段と深くなり「霜の季節」。

しかし今年はまだ霜は降りていない。今年も温暖現象か?富士山や日本アルプスの一部では、すでに冠雪があり、山々の頂は白い衣で覆われ始めているのだろう。

庭では「リンドウ」が冷たい雨の中で最後を飾ろうとしています。空に、心に突き刺さるような、青みがかった薄青紫、なぜか「トリカブト」と同じ色です。

霜枯れの前に彼女等は咲き誇っている。
一茶も「霜がれのそれも鼻かけ地蔵哉」と歌っている。

 

「東京の秋」(尾崎喜八

 黄金と青との秋
 火の見櫓や坂道のむこうに
 日にかがやいた山壁のなつかしい秋
 この都会にも秩父の風が来て住む秋だ
 限りなく人間らしいもの、父らしいもの
 犯しがたく、また恩愛にみちたものが
 今日、私を呼んでいる、鼓舞している
 
 

 

森の人

牛蒡のキンピラ作り

今日は天気が悪く朝から「牛蒡のキンピラ」作りです。

材料は牛蒡 3パック、キャノーラ油、ゴマ油、タカノツメ 2本、砂糖、醤油、ミリン、料理酒。
分量は全部適宜、味をみながらの料理です。

土付きの牛蒡を水洗いして、「ささがき」が大変です。
少し水を垂らしながら灰汁を出します。

量がちょっと多いので大きめのフライパンで2回作り、
最後に一緒にしてから「ゴマ油」で香りづけ。

最後に水分を飛ばしながらフライ返しをして出来上がり、かかった時間は約1時間ちょい。

お昼のご飯に間に合いました!

 


森の人

蓼科山365日 10-22-19 空中鬼

昨日は濃霧で「一寸先は闇」状態、今朝は無慈悲にも
「大雨」です。被害地に追い打ちの雨です!

最近、「酸性雨」についてTVでもあまりニュースになっていない、はたして大丈夫?

かってNYの「女神像」はボロボロになった。犯人は「酸性雨」です。

他にも銅像や建物など沢山ある。
最近では、台風の影響で予期せぬ塩害があった。

建物だけでなく、スイスでも針葉樹林が被害を受け、
ドイツでは「黒い森」が、北欧では「湖沼、魚、植物」に影響が出た。

中国ではこの「酸性雨」を「空中鬼」と呼ぶそうだ。
怖い鬼です!

最近、個人的には「頭の毛」が白く薄くなってきた、
もしや「酸性雨」のせいでは!? 

 

 

森の人

紅葉ーツタウルシ

白樺街道沿いの唐松平辺り、蓼科牧場の信号より蓼科山七合目登山口までの標高1600~1700mくらいの所から白樺とダテカンバの樹が入り混じって彩りに変化を持たせてくれています。

辺りにはカエデ、ドウダンツツジレンゲツツジ、ナナカマドなどの紅葉で埋め尽くされ、カラマツに巻き付いた「ツタウルシ」が林の中に見受けられます。

朝日に照らされ紅葉した「ツタウルシ」、夕陽を受けた紅葉は日に日に少しづつ変化しています。

多くの落葉樹は色の違いがあり、紅葉したり黄葉したりして、それぞれ味わいのある色をだしている。


 高浜虚子

   あたりまであかるき漆紅葉かな

 

 

森の人

蓼科山365日 10-21-19 千曲川の歴史を振り返って

令和元年の台風19号で甚大な被害を日本列島にもたらせました。特に長野県を流れる千曲川です。「あばれ千曲」の異名があります。その歴史を振り返ってみました。

千曲川は長野県川上村、埼玉県、山梨県の3県の境にある甲武信ケ岳にその源を発し、新潟県に入り信濃川と名を変え日本海に注ぎ込む。全長367kmの日本最長河川です。

以前から疑問があったが「小海町」辺りから地名に小海、海尻海ノ口、馬流、広瀬など「海や水」に関する名前が多い。また小諸辺りまで河川から切り立ったような絶壁が多く、その地層が新しい。

もし何万年も前から河川があるなら、河川の中の石は転がりながら丸く小さくなるはずである。地層も長年の雨風で削られ勾配がもっと緩やかであるはずである。

最近の研究によると、平安時代に小海町一帯で発生した山体崩落で千曲川がせき止められてできた天然のダムの規模が国内史上最大規模で黒部ダムの約2.9倍にあたり、その後決壊して、東北信一帯が大きな水害に見舞われたらしい。古文書に888年に信濃国で洪水があったとの記述がある。

このことから、当時辺り一面が海のように広かったところから、地名に「海」という字が使われたのではないか? また山が大量の水で削られたため地層が比較的新しいのではないか?と思う。

今でもところどころ小海線は絶壁の下を通っている。秋の頃の紅葉は素晴らしくきれいだ。近くに山城で史跡となっている「海尻城址」がある。

やはり太古から水に縁の或る地域なのでしょう!

 


森の人

山に住むイナゴ?バッタ?

標高1500mの高原に「イナゴ」と思しき「バッタ」がいる?

見たところ「殿様バッタ」とは色と大きさが随分違い小さいので、「イナゴ」かなと思う。

イナゴは子供の頃によく食べたので、捕まえて食べてみるとイナゴかバッタか判明するのだが!

漱石の「坊ちゃん」の一節に、生徒がいたずらにイナゴを主人公の蒲団の中に入れ、大いに憤慨させる場面がある。

「おれはバッタの一つを生徒に見せて、「バッタたこれだ。大きなずう体して、バッタを知らないた、何の事だ」といきまくと、一番左の方に居た顔の丸い奴が、「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた」とある。

西洋人は、バッタ、コオロギ、キリギリス、スズムシなど全部まとめて「虫」と言う概念しかない。
気の毒に思う、虫に対する愛着も無ければ詩情もない。無味乾燥である!


一茶

 夕月や流れ残りのきりぎりす

 

森の人

蓼科山365日 10-20-19 追憶

すっきりした秋晴れが望まれませんが、今朝の気温は5度と冬は確実に近づいている。

この辺りの紅葉は一段と色が濃くなり、一部枯れ葉となり、吹き溜まりに集まっているようです。

ヨネ.ノグチの詩に「恋愛は枯れるであろうが、追憶は永遠に青い」という個所があります。

我々が昔を懐かしんだり、子供時代の友と語る時、それは時間がとまり、心も止まったままです。

その泉から、つきない春のよろこびを汲み上げることができるであろう。

北杜夫さんは、彼の小説「幽霊」の冒頭で追憶について次のように書いています;

人はなぜ追憶を語るのだろう。

どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。

だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、
そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、
くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。

そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。

わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持がするのだろうか。

 

 

森の人